大鷲神社(おおとりじんじゃ)は、東京都足立区花畑七丁目にある神社。地元・花畑地区の産土神であるとともに、浅草をはじめ各地の「お酉さま」の本社といわれる。花畑大鷲神社(はなはたおおとりじんじゃ)とも称される。江戸名所図会に掲載されている。


この神社の創建年代等については不詳であるが、言い伝えによれば平安時代後期の武将源義光が、後三年の役のおり、兄の源義家を助けるため東北地方へ向かう途中この地で見かけた鷲のおかけで戦いに勝つことができたことから、その後その鷲を祀ったのがこの神社であるという。古くは鷲明神と称されていたが、明治以降鷲神社と改められ、のち大鷲神社を正式名称とした。ちなみに明治初年に初めて地番が施行された際、当神社は「花又村一番地」となった。

寛永元年(1624年)の棟札写に「再建」とあるところから、それ以前から神社が存在していたものと考えられる
現存する石造物では万治2年(1659年)銘のものが最古である。
神仏習合の時代には正覚院が別当寺であった。
江戸時代後期には周辺各地の和算家より算額を奉納された記録があり、一部は現存している。
現在の社は安政年間、秋田久保田藩主佐竹氏の寄進とされ、左甚五郎の弟子が彫ったとされる柱の彫刻がある。


鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)とは、埼玉県久喜市鷲宮1丁目に所在する神社である。一説には関東最古の大社とされる。また、お酉様の本社とされる。天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神とする。

なお、本記事で取り上げる本社の鷲宮神社だけでなく、周辺には数多くの同名の支社が存在し、久喜市内にも下早見に支社がある。また、栃木県栃木市には「下野国鷲宮神社」があるため、本記事の鷲宮神社を便宜上「武蔵国鷲宮神社」と呼称することがある。


社伝によれば、神代の昔、天穂日命が東国を経営するために武蔵国に到着し天穂日命のお供の出雲族27人の部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝える。その後、日本武尊の東国平定の際、別宮を建てて天穂日命と御子神の武夷鳥命を祀ったという。ただし、これらのことは『延喜式神名帳』や『国史』に記載がない。

また別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、「はにしのみや」がいつしか訛って、現在の「わしのみや」になったとされる。後述する神楽は、伝承に基づいて「土師」の名称を用いている。

中世以降には本社周辺の地域が将軍領となり、総社として扱われたことから関東の総社・関東鎮護の神社として東国の武家の崇敬を受けた。建長3年(1251年)、北条時頼が当社に奉幣祈願したことが『東鑑』にあるほか藤原秀郷・新田義貞・古河公方・関東管領の歴代上杉氏などが幣帛の奉納、神領の寄進、社殿の造営などを行っている。天正19年(1591年)、徳川家康が社領400石を寄進し歴代の将軍も朱印状を発行して社領を安堵した(朱印地)。

江戸時代初期より明治時代初期まで、神社所領は大内氏が治めた(所領約1000石)。江戸時代初期、徳川家光の日光東照宮参拝の際、利根川渡河の警備に参加した大内氏は家光が利根川に落水した際これを助けた。この功により本来ならば領地を加増されるところであったが、関ヶ原から間もない時期でその余裕もなかったためかその代わりに江戸城内での1万石の格式を与えられた。そのため江戸城への登城時は大名が通される部屋に通され、また大内氏の用人は江戸城内では「家老」待遇となったと伝えられる。

明治元年(1868年)、明治新政府により準勅祭社(東京十二社)の1社に指定された。
明治初頭の寺院整理神社統合により、別当大乗院は廃止された。



大鳥大社(おおとりたいしゃ)は大阪府堺市西区鳳に鎮座する神社。埼玉県の鷲宮神社と並んで全国の「大鳥信仰」の本社とされる[1]。式内社(名神大)、和泉国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。本殿は大鳥造という独自の古形式を保っている。


日本武尊(やまとたける の みこと)
大鳥連祖神(おおとりのむらじ の おやがみ)
元来の祭神は大鳥連の祖神であるらしかったが、一時期天照大神が祭神とされるようになった。「和泉国大鳥五社大明神并府中惣社八幡宮縁起」によると本地仏は釈迦如来となっている。その後、日本武尊が祭神と考えられるようになり、これが定着した。これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合であると考えられる。

以来、長い間にわたって日本武尊を祭神としてきたが、1896年(明治29年)に政府の祭神考証の結果を受け内務省の指示により、大鳥連祖神に祭神を変更した。その後、1961年(昭和36年)に大鳥連祖神にくわえて、日本武尊を祀った。

大鳥連は中臣氏と同じく天児屋命を祖神としていたので、大鳥連祖神は天児屋命ということになる。

※各神の祭祀については、大鳥氏が単に一宮の神官であったというには、後世の倭武伝説を差し引いたにしても、その変遷ぶりには謎めいた部分も残っており、大鳥連の、領主あるいは神官という職業以外の何らかの役割を古代豪族社会で担った可能性も含め、今後も検証が必要と思われる。





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